秘すれば花2

秘すれば花とは、世阿弥の『風姿花伝』の言葉です。

前回の記事で、「花」について説明しましたが、人は12,3歳で「時分の花」を咲かせると言います。その花は声変わりとともに無くなってしまうのですが、そういうものと意識して稽古に励む。24,5歳では、新人の新鮮さが「時分の花」となりますが、それは「まことの花」ではないので、「初心」を忘れるなと説きます。

この部分は、能の稽古における心構えを書いているのですが、若さや目新しさは武器にもなると教えてくれます。それを武器にしながら、それを「時分の花」とわきまえて精進するという、一つ上からの見方ができることは大切です。

秘すれば花

 さて、「秘すれば花」とは、隠されることで、実際に全て見せてしまうよりも魅力的に映るという意味で使わることがあります。しかし原文は、「花」という概念そのものを観客に伝えてはならないと読めるのです。

 

“秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず”

“「ただめづらしきが花ぞ」と皆知るならば、「さてはめづらしきことあるべし」と思ひまうけたらむ見物衆(けんぶつしゅ)の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手(みて)の心にめづらしき感はあるべからず。”

“見る人のため花ぞとも知らでこそ、為手の花にはなるべけれ。”

“人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり。”

 

秘する花をしること。秘すれば花である。秘せずは花とはならない。

「むやみに、めずらしいことが花だ」と理解して「さてはめずらしいことがあるな」と期待している観客には、例え珍しいことをしても珍しくは映らない。

見る人のため、花だと理解できないでこそ、演者の「花」となるはずだ。

人の心に思いもよらない感を引き起こすてだてが「花」である。

 

実は、この世阿弥の「花」の概念は、他人との対話に当てはめて考えられます。つまり相手に「花」を感じさせることを主眼としますが、前提として、まず「演者」であると認識してもらうことが必要です。演者が行動を伴う物語の中に身を置き、それを伝えること、そして「思いもよらない感」を引き出すこと、その手だてが「花」だとすれば、それは突飛な行動というよりも、行動の早さや、広がりや、熱量だと考えます。「花」を感じさせることを意識した演者としての行動は、面白がらせるということは伏せて行い、相手に合わせて複数の役をこなすこと等、世阿弥に習うことができるでしょう。