フェミニズムと男性社会の対立について考える

フェミニズムジェンダー論については、専門でもなければ、考えたことすらないことを断っておきます。つまり「何言ってんだこいつ」という、つっこみ歓迎です。

 

フェミニズムは、女性の権利を求めることであり、ジェンダーとは「社会的・文化的な性」のことを言うそうです。「社会的・文化的な性」と言われても、ピンときませんが、「身体的な性」と区別するために生まれた言葉と考えると理解できます。

「身体的な性」は変えられませんが、「社会的・文化的な性」は変えられる。この対比が重要です。

 

少し前に、この問題を討論している動画を見ました。元は違う話から、ジェンダー論の話になって、出演しているAさん(女性)とB氏(男性)の意見が全く噛合わず、見ていてモヤモヤが溜まりました。

Aさんは幼少のころ、性的なことを知った男子が女子をからかうことがあって、反応に困った女子は弱い立場に置かれる。女子は恥ずかしがり無垢であらねばならぬという空気も嫌だし、恥ずかしがらずに対応する女子がいた場合、男子がその子を仲間として向えてしまう。男性が作り出した女性像による締め付けと、男性目線の女性の線引きみたいなものは、どちらにしても男性に主導権があり、男性優位の社会、文化、思想によるものだ。Aさんの言葉を私なりに解釈すると、このような主張でした。

 

それに対しB氏は、男性優位になってしまうのは、元々身体的な違いがあり、それに伴う文化が出来上がってしまっているので、仕方がない。その違いが優れた文学を生むし、女性であることの優位性だってあるはずだ。という主張でした。

 

ジェンダーの定義を読めば、AさんとB氏の意見の相違は、「社会的・文化的な性」対「身体的な性」という構造が明かになります。そして、Aさんの社会の認識は変えられるとする立場と、B氏の変えられないという立場の対立なのです。リベラル対保守の対立でもあります。もっと言うと、現状を許容しないか許容するか、受け入れないか受け入れるかの違いでもあります。或いは、相手が変わるか、自分が変わるか。諦めていないか、諦めているか。

Aさんからしたら、なぜ苦しんでいる人間がいるのに、一人一人が認識を変えるだけのことができないのか、多くの人の認識が変われば、社会や文化も変えられる。

B氏にしたら、苦しんでいる人は沢山いて、本人が変えがたい現状を受け入れることで、苦しみを和らげらることができる。

 

AさんもB氏もここまで主張していませんでしたが、無理やりお互いの思想を原理的にして対立させました。

人間の思想はこんなに白黒はっきりとしているものではありません。上記のように思想をわけることで、譲歩した部分に矛盾が生じます。その矛盾はその人の人生の経験で培われた、優しさや思いやりであると同時に、相手に強いるエゴであるとも思います。

今回のことを考えているうちに、自分の立ち位置の原理を考えることは重要ですが、矛盾を自覚し、その矛盾点が優しさかエゴであるかを観察することが更に大切だという結論に達しました。

お互い、自分の立場を説明するだけでは平行線をたどり、相手がわかってくれないと見るや、尚更自分の人生で受けた傷を示すことで、立ち位置を補強しようとする。その思考の工程は、自己肯定をする段階で、幾度となく繰り返されたものであるから。

しかし自分自身の矛盾の存在を認め、肯定し又は否定し、相手の矛盾点を受け入れ、肯定し又は否定し、という行為をお互いに行う。詰まる所、お互いの人生や思いや経験や考えを丹念に拾っていく作業で、相手を見ていくことが、この平行線を脱する道だと思いました。

一般論として論理立てては人は見えず、矛盾を含み論理立たないところに人はいる。そんな感じです。

 

この問題について相談にのってくれた友人の言葉

「答はぐちゃぐちゃな問題から、答えを出すのではなくて、逆の方がいい。全く正しい意見だけど、カオスに向かう証明の方がいい。人間の心理なんてカオスなのだから、そっちの方が人間を肯定することに繋がる。正しいことを言っても、人間味が無くなっていく。意見のぶつかり合いは人間を見ていない。」