世阿弥の教育

生まれながらの才能はあります。学力は才能です。努力ができることも才能です。才能とは遺伝であり、始めから備わっているものです。そんなことは皆わかっていることですが、面と向かって受け止めるには、少々の諦めが必要となります。救いがあるとすれば、才能のある人間は少ないということでしょう。

 

世阿弥の言う「花」は、日々の稽古や観察、創意工夫で得られるものですが、それは才能がない者でも、家を守る程度には機能する技術です。実際のところ、舞台上での「花」も才能で優劣のついてしまうものかもしれません。世阿弥は「時分の花」とも言っており、「花」を自然に獲得できてしまうものとも認識しているので、才能による「花」のことも考慮したと推察します。しかし才能のことには触れず、「花」を秘伝とすることで、才能のない人間が当主となっても、ある程度の興行ができ、家の継続が可能だと考えました。

 

逆に言うと、日々の鍛錬の重要性が明らかとなるのですが、世阿弥がこれだけ稽古のことに触れるのは、努力の方向を間違うなと言っているのです。やみくもな努力ではなく、観客にあたえる珍しさという方向を見据えた、観察と分析を経た努力です。

 

家という考え方は時代錯誤であり、家のために個人を犠牲にしてしまうのなら本末転倒な話ですが、子供や孫にそこそこの仕事があり、生活に困らないでほしいという単純な願いは、親として当然のものです。教育の観点から、世阿弥が子孫に残そうとした風姿花伝は、私たちにの役に立つ読み物です。世阿弥は家の存続のため家業の成功を考え、「花」を定義して努力の方向を示しました。

現在、家業と呼ばれる仕事がある家でも、子供にその仕事をやらせません。それでもなお、子供の仕事を考えるのであれば、親として秘伝の「花」だけは教えたいなと考えるこの頃です。