秘すれば花1

秘すれば花とは、世阿弥の『風姿花伝』の言葉です。『風姿花伝』は1400年ごろから執筆がなされたようで、家のため、子孫のために残した、能についての秘伝書です。それが、今やインターネットで読めてしまうという事態が面白い。

私は『風姿花伝』を掻い摘んで読んだだけですが、能にとどまらず、他人に対しての自分の見せ方に応用できる、普遍的な書物だと感じました。

風姿花伝』の花を説明した部分を掻い摘みます。

"花と、面白きと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲く頃あればめづらしきなり。”

“習ひ覚えつる品々を極めぬれば、時折節の当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体を取り出だす、これ、時の花の咲くを見んがごとし。花と申すも、去年(こぞ)咲きし種なり。”

“能も、もと見し風体なれども、物数を極めぬれば、その数を尽くすほど久しし。久しくて見れば、まためづらしきなり。”

“物数を尽くして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。「花は心、種は態(わざ)」と書けるも、これなり。”

“しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。”

 

と書かれています。

「花」は面白さであり、珍しさであり、それは散るものである。散って咲くからこそ珍しく感じる。

習い覚えた役柄を多くし、時期や世の中を心得て、人に合わせて演じる。これは季節の花を見るようなものだ。今咲く花も、去年咲いた花の種である。

多くの演じ方を極め、数多く演じていれば、以前見た演じ方でも珍しさを感じさせる。

数多く演じ、(公安)工夫(生活の中で常に考え工夫する)を得て、珍しさを感じさせることを、心得ることが花である。「花は心、種は態(わざ)」である。

一つの役、鬼ばかりを演じる役者は、岩ばかりであり、その鬼の役ですら花はない。

 

とても示唆に富んだ内容だと思うのです。

続く